2019年7月2日火曜日

7話

少年は、自宅から遠い大学に合格した。ランクの高い大学だった。電報が届いた日に、
文房具屋に走って行き、その日こそ少女の名前を聞くつもりだった。本を読んだこと、
勉強したこと、そして少女を幸せにできることを話すつもりだった。走る間じゅう、
胸に入ってくる春の空気が気持ち良かった。でも、文房具屋に少女はいなかった、
新しい土地に出発するまでの間、毎日文房具屋に通ったが、一度も会う機会はなかった。
最後の日に、少年は、大江健三郎を買った。女性の店主は、
「あの娘はもうこのお店に来ないね。ごめんね」と言った。栗色になった髪をアップにした
店主の顔が平板に白くなったことで、化粧が厚くなったことに気が付いた。


翌朝、新しい土地に向かう飛行機の中で、女店主が少女の名前を知っているかもしれないことに
気がついた。少年は、次に戻った時に、必ず名前を聞くことを決めた。


大学最初の夏休みに、少年の父親が病気になった。少年は、帰省した日に家にもどらず、
父親の入院している病院に行った。清潔な廊下が広くて、病室から大きな河が見える病院だった。
母親はてきぱきと動いて、父親が病気から回復できるように、様々なことを父親に指示していた。
わがままだった父親は、母親の指示を全て聞いていた。夕方、面会時間が終わって、
帰宅途中に母と食事をした。
「お父さんもね、本当にだめなところはあるけど、今はみんなで励まさないとね」
少年は、母の前髪が栗色になっていることに気が付いた。


その日帰宅するとオルゴールの箱が消えていた。箱のあった棚には、癌に関する本が置かれていた。
本には父が読んだらしく、父の字での書き込みとメモが挟まっていた。少年は、オルゴールの
ことは尋ねてはいけないように感じて、癌の本の横に社会思想史のテキストを並べた。
遠い大学で、教科書として購入したものだった。同級生との飲み会で、アイドルの衣装を来て
歌う男性の同級生に、社会思想史を語ったら評判になり、何度も中身を読んだ結果、
中身を語れるようになったものだった。少年がいくら社会思想史の本の内容を説明しても、
NHK教育の学者のようにはならなかった。

少年の夏休みは、父の付き添いとアルバイトで過ぎた。何度か文房具屋に行ったが、
少女はおらず、女店主が大人びた少年を喜んでくれた。女店主の髪は栗色から
金髪に変わっていた。自宅ではオルゴールがしまわれてしまい、少年には、
サチフダが無かったので、少女の名前を聞くことは無いと感じた。少年は夏休みの思い出に
ガルシアマルケスのエレンディラを買い、大学のある街にもどった。毒薬を飲み干しても
平気な登場人物が何も不思議に思えない世界を通すと、少年の日常は少し変化したような
気がした。

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