2019年7月2日火曜日

まえがき

こんにちは、ホレアメを書いた者です。

昭和の時代の少年少女には、スマホやSNSはありませんでした。また、電話は固定式で多くの場合には、かかってきたて電話は親がとりました。だから、恋愛をした時の最大の問題事は連絡でした。中学ぐらいになると、連絡係役を引き受けてくれる同級生が登場するのですが、3人中2人は、同級生の恋愛の不成立を楽しく笑うために、連絡役をしてくれるので、利用することは危険でした。
そんな時代の、少年少女のハナシを書いてみました。
実は、ホレアメよりも先に書いていたのですが、何度か書き足すうちに、公開が遅れていました。
今回、ホレアメを読んだヒトから、もう一つの読み物も読みたいとのリクエストを受けて、公開します。

それほどワクワクしない作品かもしれませんが、ちょっとだけでも、シアワセで優しい気持ちになってもらえると幸いです。
1から順に読んでください。

ブログを開いて、最後にある次のエピソードを示す「〇話」という文字をクリックすると、
次の章を見ることができます。

最初が下の1話です

1話

昭和の家族にとって大晦日は特別だった。
大掃除をして、正月用品の買い物に出かける。大晦日の夕方から3が日の間は、
おもちゃ屋と一部のレストラン以外は全てのお店が閉店する。
正月を華やかに過ごすためには、この日に準備をしなけけばならない。
ほとんどの家庭では、夕方までその準備を終えてから、午後7時に始まるレコード大賞と
紅白歌合戦を見た。その華やかな時間の後に、家族全員で、行く年来る年を見ながら
食べる年越しそばが、少年は何よりも好きだった。
その夜には小学生でも夜中まで起きていられるため、森繁久彌やフランキー堺の映画を
見ることができた。

一年で最も家族の暖かさを感じられる時間だった。

その年の30日に、少年の母親は家事をやめた。
いつも甲斐甲斐しく父の世話をして、食後のお茶の温度まで父親に気を使う母親が、
食事を作らず、洗濯も掃除もやめた。ただじっと座る母親に、父親は何も文句を言わなかった。
大晦日には、母は洗濯を始めたが、洗濯が終わった後、
その洗濯物をかごを父の頭の上でひっくり返した。タオルや下着で顔が隠れた父は
何も言わなかった。


大晦日の夕方に、少年は家に居づらくなり地区センターに出かけた。
特別な日に、これほど寂しい気持ちになったのは初めてだった。この地区センターは、
この住宅街が計画されたときに、地区ごとに作られた商業スペースで、
お風呂やスーパーが入っている。
以前は母と買い物に来たが、2年前に私鉄がやってきて、
駅の周辺に新しくスーパーと商店街がオープンして以来、来る機会が減っていた。
少年はすることもなく、酒屋の前のベンチに座って、広場にいる鳩を眺めていた。
鳩は、いつもと変わらず餌を探していた。

2話

広場の向かいのベンチに老人と少女が座っていた。二人はそばを食べている。
スーパーで売っている発泡スチロールの容器だった。カップから立ち上がる湯気の中で、
少女はそばを一口食べるたびに老人に「美味しいね」をと言っている。
少女が老人に話しかけるたびに、寒い風で白んでいた老人の血色が良くなっていく様子が見えた。
少年の家では、母親が不機嫌でもそばを作ってくれるはずだった。
少なくとも、少年は家でテレビを見ながらそばを食べることができる。
少年は、大晦日にもいろいろなヒトがいることを初めて知った。広場には鳩と少年とその二人だけで、
寒い風が時折吹いていた。


気がつくと、少年のとなりに男性が座っていた。背広を着た若い男性だった。
男性は少年に紙を差し出して、
「あなはに、この紙を上げます。これはサチフダといって枠の中に名前を書くだけで
そのヒトを幸せにできます。でも覚えていてください。このフダに書ける名前はひとりだけです。」
と言った。
少年はチケットを良く見た。古い紙のようだった。縁取りが名前を書くように作られいた。
縁取りの面の裏には何かの文字が書かれていたが少年には読み取ることができなかった。
気がつくと男性はいなくなっていた。


その夜、母親は少年の寝床にやってきた。何年かぶりに添い寝をした母親は、
静かな声で少年とお別れをしなければならないかもしれないことを話した。
理由を尋ねる少年に、母は「大人になったらわかるかもしれないけど、
絶対にあなたは奥さんを悲しませたらいけませんよ」と答えるだけだった。
少年には寝床が狭くなったが、母親を守らなければならない気持ちになって、
黙って寝たふりをした。しばらく黙っていたら、首に熱いものが当たった。涙だった。
母親はすすり泣いてた。

少年は、母親に話しかける言葉を探した。少年がいつも一緒に居ることを伝えれば
きっと安心してくれるに違いない。しかし、言葉は出て来なかった。そう考えているうちに
少年は眠ったようだった。夢の中では、母親が甘く切ない音楽を聞いていた。
その切ない音楽に涙する母親に、何もできない自分が悔しくて、少年は泣いた。
夢の中でも細かく息を吸って、小さな声を出していた。夜中に起きると母はおらず、
枕が濡れていた。少年は明日の朝、サチフダに母親の名前を書くことを決めた。

3話

少年はもう一度寝て、また母と一緒に泣いているユメを見た。起きてみると父がいた。
何度か起こしにきていたようで、「やっと起きたか、着替えて出てこい」と呼ばれた。
服を着て居間に出ると、おにぎりとが用意されていた。父が握ったようで、不恰好なおにぎりだった。
父は早くそのおにぎりを食べるように言いながら、3千円を少年に渡し、
今日はこれでおもちゃでも買ってこいと言って少年に外出を指示した。
その日は1月1日だった。正月に家族で食事もせずに出かけると、きっと母親に怒られると
少年は思ったが、母は食堂に座って背中を向けたままだった。振り向いてくれるはずだと少年は
思ったが、結局振り向かなかった。少年は、おもちゃを買いに出かけることにした。


少年は駅前の玩具店に行った。当時、正月の1日から3日までは、レストランと玩具店だけが
営業していて、その他の店は全ておやすみだった。お店は両親を連れた子どもたちでいっぱいだった。
玩具店には少年が憧れたおもちゃが多数おいてあった。ただ、少年は、その日だけは、
どのおもちゃを見ても欲しくならなかった。人生ゲームもモノポリーもなんとなく買っても
無駄なような気がしてしまった。それでも、早く帰ってはいけないような気がして、
昨日と同じ地区センターに20分ほど歩いて行く事にした。


地区センターでもほとんどの店は閉まっていた。餌が無いことを知っているのか、
鳩も居なかった。ただ、一軒だけ文房具屋が開いていた。そこは、本とおもちゃも
少し置いているので正月から営業しているのかもしれない。少年は小学校の帰りに、
プラモデルを下校中にその店で買ったことを思い出した。文房具屋に入ると、
客は一人きりで、本を見ていた。昨日見た少女だった。少女の目線の先には
少年少女文学全集が置かれていた。昨日、優しい声で老人とそばを食べていた様子を思い出した。
その子は文学を読むのかもしれない。そう思っていると、目を上げた少女と一瞬目が合った。
少年の小学校では見かけない子だった。少年は激しくなった心臓の音を少女に聞かれるのでは
無いかとずっと心配だった。その日、少年は十五少年漂流記を買って帰った。本を買うときには、
あれほど視線を避けた少女が見ていてくれたら良いのにと思った。

家にもどると、父が夕食を作っていた。母は無表情で食卓の椅子に座って父が食事を作る
様子を見ていた。不思議そうにしている少年に、母は「しばらくはお父さんが食事を作って
くれることになったからね」と説明した。母親は力強くて、父親に命令しているような様子
だった。その夜はオズモンド・ブラザーズとコント55号の正月番組を見ながら食事をした。
少年はコマーシャルの間に部屋にもどって昨日のサチフダを見直した。フダは机の上にあった。
しばらくフダを見て考えたが、少年は、母親の名前は書かなくても良いと感じた。きっと、
母親は父親が幸せにするだろう。そのかわり、あの、そばを食べていた少女を思い出した。
少年が幸せにできれば、寒い広場で老人を見上げていた少女は、もっと暖かく楽しくなるような
気がした。

4話

少年は少女の名前を知るまでの間、サチフダを保管する場所を考えた。
少年は良く学校からのプリントをなくした。特別なフダは特別なところに置かないと、
プリントと同等になくなると思った。部屋中探して、本棚にオルゴールを見つけた。
箱を開くと甘く切ないしらべが響いた。この箱の底に板が一枚しいてあり、
紙を隠せるようになっていた。少女の名前を書いたフダをここに仕舞えば、
甘く切ない音楽とともに少女に幸せを届けられるような気がした。


その正月から少年は、文房具屋に良く行くようになった。
文房具屋に行く際には、少女の名前を聞いてチケットに書けるかもしれないと考えていた。
実際、少女は良く文房具屋に居た。いつも本を見て、時には読んでいた。少年は話しかける
方法を何度も何度も考えた。十五少年漂流記のブリアンが、仲間と対立しても冷静に判断したことを
話せば会話を始められるかもしれれないと良く考えた。「こんにちはよく会いますね」などと
声をかけるのは、そのあとの会話を続ける自信が無く、結局使わなかった。
一方、「どこの小学校?」という問いかけは、刑事みたいでだめだと考えた。
少年は、何度も考え、本のことを尋ねるのが一番良いと考えた。少女が眺めていた本を買ったら、
きっと話が合うかもしれない。でも、もしあまり読んでいないことがわかったら、
本好きの少女は微笑みを消しまう。少年は、正月に買った十五少年漂流記を最後まで読んた。

5話

少年は中学校に進んた。小学校の最後の1年間には、本の中の思い出が増えた。
C.S.ルイスが書くナルニア国では、北の国を旅した。「ナルニア国の広さ知ってる?」
と少女に話しかける夢を何度も見た。でも、現実では、何度も見かけた少女に話しかけることは
できなかった。ナルニア国が最後の日を迎えて、次に読んだJRRトールキンでホビットが旅を終えて
パイプをくゆらせているころに、少年は小学校を卒業した。


1年か2年待てば、少女は同じ中学校に来るはずだった。
少年の住んでいる町を含む4つの町の小学生は同じ中学校に進むことになっていた。
ただ、少年が中学校2年の時に、中学校が新設されて、自分の住む町ととなり町の児童は
そちらに進学することになった。少年がそれを知ったのは、テニス部に入って初めての後輩に
素振りを教えているころだった。少年が「先輩」と呼ばれるたびに顔を赤らめるので、
中学一年生は、できるだけ少年を「先輩」と呼ばないようにした。

少女は、セーラー服を着るようになり、背丈も伸びた。少年は、相変わらず話しかけられない
まま文房具屋で本を買った。少女の背丈が自分に追いつき、越してしまっているかもしれない
と考えて、小学校の頃よりも離れるようにした。それでも、少女と本の話をする機会をずっと
探していた。JRRトールキンの書いた指輪物語を一巻一巻買うときには、女店主にお金を払う後ろで
少女が見ているような気がした。少女の黒い髪からは、小学校の頃のような跳ねた髪がなくなり、
流れて輝くようになっていった。少年は、少女の髪を見ないようにした。
髪を見るだけで心臓の音が少女に聞こえそうだった。少女に会えた日には、
サチフダの入っている箱を開けて、オルゴールが奏でる甘く切ない曲を聞いた。想像の中で、
少女に彼女の名前を書いたフダを見せた。いつも、少女は幸せそうに微笑む。
ただ、想像の中でも名前を書き込む枠は空白だった。

6話

共学の公立高校の受験に失敗して、少年は男子校に行く事になった。
入学の日には、これからの高校生活よりも、少女が入学してきて名前を知る機会は
絶対に無いことばかりを考えていた。
少年の通っている高校は遠かったため、電車での通学時間が長くなり、本を読む機会が増え、
文房具屋で本を買う回数は増えた。少年は、外が見えない地下鉄で、井上靖や中島敦が描く
遠い西域に憧れた。砂漠の中に都市があって、その中で人が暮らしている。騎馬民族の戦争は
砂吹雪よりも激しく確実に都市を包み込んで全てを流し去ってしまう。通学中に読むので、
物語の途中で地上に出ると、現実の通学風景が頭の中の西域の風景に続いた。普通の商店街と
それに続く校門があって、多数の高校生と一緒にヒトの流れに乗っているのは、それなりに、
砂漠の隊商と似ているところがあるような気がした。


高校2年になった時に、少女は、高校のセーラー服を着るようになった。少女が着ているのは、
少年が入学できなかった高校だった。その服を見て少年は、自分の高校を知られることを
避けたくなった。少年の通っている高校は教室の窓に鉄格子が嵌まっており、授業中でも、
廊下を歩くときでも、暴力に巻き込まれる危険があった。男子学生だけの高校では、
恋愛感情で心を高ぶらせる代わりに、同級生から金銭を巻き上げるスリルを楽しむ若者が存在した。
少年は、危険な同級生との会話で適切な距離をとることを覚えた。高校2年になっても
少年は金銭をとられず、暴力の被害にも逢っていなかった。上手く生き抜く技術を得たことは
少年に何の満足感も運んで来なかったが、砂漠を越える隊商のように最後は利益をもたらすと
信じて、少年は高校に通い続けた。


文房具屋でたまに見ることができる少女は、少年には届かない高校の憧れで、遠い存在だった。


高校に入ってしばらくして、少女はポニーテールになった。
少女には相変わらず話しかけられなかったが、名前を覚えてくれた女店主とだけは、
本を買うときに話すようになった。男子校に通う少年にとっては、
数少ない会話ができる女性だった。
女店主は、文房具も本もおしゃれな駅前の本屋で買うようになった小学生を嘆いた。
少年は、主にうなづく役目だった。そのころ、少年は、学習参考書と大学案内を
文房具屋で買った。参考書は、少年にとっては、今の環境を抜け出すための地図のようにに
思えた。大学に進学することが出来れば、少年には新しい環境と自信がもたらされるような
気がした。大学では、普通のヒトが知らない知識と深い思索能力を獲得して、自分たちの
住む社会の未来を語れるに違いないと、考えた。NHK教育テレビで、社会の変化を淡々と
語る社会学者はきっと誰にでも尊敬されて、若い女性も真剣に耳を傾けるに違いないと考えた。
そして、少年が淡々と社会を語れるようになれば、きっと少女に同じ調子で名前を尋ねることが
できると思った。

少年は、ラジオの大学受験番組を聴くようになった。
夜11時から始まる番組では、毎日、「ここさえ理解すればステップアップ」が語られて、
本屋で購入したテキストの一部を書き写すと実力が上がったような気になった。
番組が終わるころには家族も寝て家も屋外も静かになっていた。少年はそのころに、
しばした、オルゴールの箱を開けて甘い音色を聞いた。何度も聞いたために、
オルゴールは幾つかの音程を外すようになった。少年は、少女に聴いてもらう日のために、
できるだけ箱を開けないようにした。

7話

少年は、自宅から遠い大学に合格した。ランクの高い大学だった。電報が届いた日に、
文房具屋に走って行き、その日こそ少女の名前を聞くつもりだった。本を読んだこと、
勉強したこと、そして少女を幸せにできることを話すつもりだった。走る間じゅう、
胸に入ってくる春の空気が気持ち良かった。でも、文房具屋に少女はいなかった、
新しい土地に出発するまでの間、毎日文房具屋に通ったが、一度も会う機会はなかった。
最後の日に、少年は、大江健三郎を買った。女性の店主は、
「あの娘はもうこのお店に来ないね。ごめんね」と言った。栗色になった髪をアップにした
店主の顔が平板に白くなったことで、化粧が厚くなったことに気が付いた。


翌朝、新しい土地に向かう飛行機の中で、女店主が少女の名前を知っているかもしれないことに
気がついた。少年は、次に戻った時に、必ず名前を聞くことを決めた。


大学最初の夏休みに、少年の父親が病気になった。少年は、帰省した日に家にもどらず、
父親の入院している病院に行った。清潔な廊下が広くて、病室から大きな河が見える病院だった。
母親はてきぱきと動いて、父親が病気から回復できるように、様々なことを父親に指示していた。
わがままだった父親は、母親の指示を全て聞いていた。夕方、面会時間が終わって、
帰宅途中に母と食事をした。
「お父さんもね、本当にだめなところはあるけど、今はみんなで励まさないとね」
少年は、母の前髪が栗色になっていることに気が付いた。


その日帰宅するとオルゴールの箱が消えていた。箱のあった棚には、癌に関する本が置かれていた。
本には父が読んだらしく、父の字での書き込みとメモが挟まっていた。少年は、オルゴールの
ことは尋ねてはいけないように感じて、癌の本の横に社会思想史のテキストを並べた。
遠い大学で、教科書として購入したものだった。同級生との飲み会で、アイドルの衣装を来て
歌う男性の同級生に、社会思想史を語ったら評判になり、何度も中身を読んだ結果、
中身を語れるようになったものだった。少年がいくら社会思想史の本の内容を説明しても、
NHK教育の学者のようにはならなかった。

少年の夏休みは、父の付き添いとアルバイトで過ぎた。何度か文房具屋に行ったが、
少女はおらず、女店主が大人びた少年を喜んでくれた。女店主の髪は栗色から
金髪に変わっていた。自宅ではオルゴールがしまわれてしまい、少年には、
サチフダが無かったので、少女の名前を聞くことは無いと感じた。少年は夏休みの思い出に
ガルシアマルケスのエレンディラを買い、大学のある街にもどった。毒薬を飲み干しても
平気な登場人物が何も不思議に思えない世界を通すと、少年の日常は少し変化したような
気がした。

8話

少年の父親は、その年の12月の第二週に他界した。葬式にもどった時に、母親は泣き続けていた。
何もできない母に代わって、父の会社の人達がお葬式を取り仕切ってくれた
何人かの父親の部下のヒトが少年に仕事をくれて、あまり悲しんで居られないのが少年には
助かった。本葬のときには、父の遺影と焼香する参列者の間に座って、手を合わせる人達の
顔を見ていた。最後の参列者が礼をして席にもどるときに、涙が急に目に溢れ、
何も見えなくなった。少年は何も見えなくても立って礼をするだけで良いことを
ありがたいと思った。


葬式が終わり最後まで残っていた親戚が去ったあとは、母はほとんど何も話さなかった。
ちょうど冬休みに入ったので、少年はそのまま自宅に残った。母親が何も話さない間、
少年は本を読んだ。ドクトル・ジバゴでユーリー・ジバコがラーラと暮らしたシベリアでの
場面に羨望と親しみを感じた。


暮れていく実家での生活で、あの箱に入ったサチフダがあれば、母の名前を書いて
幸せを呼べるのに、と、少年は考えた。考えた時に、文房具屋の女店主が少女の名前を
知っていることも思い出したが、今はフダも箱もなかった。


三十日に、伯母が訪ねてくれた。母親は、郷里から出てきて父の妻として我慢が続いたことを
話しはじめた。父親がいなくなった今、自分のために生きなければならないと決心したとのことで、
だんだん声は力強くなった。何年か前の正月に父に食事を作らせていた時と
同じ母親が戻ってきたように思えた。少年は少しホッとした。

少年は、大学を卒業し大学院に進んで、会社への就職を決めた。少年は青年になっていた。
採用されたのは、実家から通える会社だった。最終面接が決まったあとも、長い休みの時には、
会社からの呼び出しがあった。当時、優秀な人材は他の会社に就職活動に行かないように、
休みのたびに会社が呼び出して研修に参加させられた。それでも大晦日には研修が休みで、
実家でのんびりしできたので、文房具屋に行ってみることにした。青年が大学院に通っている間に、
女店主はめっきり老けてしまい、店は陳列する商品が訪ねるたびに減り、寂れていたが、
いつも青年が訪ねると喜んでくれた。その日も、とりあえず本を買って女店主と話すつもりだった。

9話

その文房具屋にはシャッターが降りていた、毎年、大晦日にも正月にも店は開いていたが、
今年は閉店していた。シャッターには「都合によりしばらくお休みします」という張り紙があった。
張り紙を読んでからも、青年はしばらく立っていた。去り難かったわけではないが、
他にすることも無いので、ただ立っていた。その時、シャッターが少し開いて娘が一人出てきた。
あの少女だった。最後に見てから5年以上経っていたが、青年には分かった。
娘も驚いたような表情をしたが、彼女は青年を覚えていた。
「今日は来てくれたのにすみません。母が病気になって入院してしまって、
これからお見舞いに行くところです。」
と言った。
娘の言葉に対して、青年はしばらく理解も整理もできず、黙っていた。娘は、
状況を理解したらしく、説明した。

「私がここの娘だということを、お母さんには黙っていてくれるようにお願いしていたのですけど、
本当に守ってくれたんですね。時々来てくれた時には店の手伝いをしていたんです。」

青年が返事をする前に娘は、

「ごめんなさい面会時間に届けなければならないものがあるので。」

といって急ぐことを告げた。青年は、ちょうど駅まで行くところだと偽って、
娘が駅に向かう間、覚えていてくれた礼と自分の近況を手短に話した。それから、
青年は、翌日にもう一度娘と会う約束をして駅の改札前で別れた。大学院では女友だちもでき、
その程度の会話ができるようになったことが少し誇らしかった。

10話

翌日の1月1日には、青年はアルバイトで貯めた金で娘を食事に招待することにした。
母には、正月研修と説明して、午前中からその街のターミナル駅に行き、
駅から見える高層ビルのレストランに電話を掛けた。就職の研修では、このような
レストランとの交渉方法も教えてくれた。

「今日は特別な日なので、一番上のコースをお願いします」

という予約のしかたも研修通りだった。
娘とは、女店主の介護が終わって戻る夕方に、青年の実家と本屋の最寄り駅の改札口で
待ち合わせをしていた。


昨日別れた改札口には、娘はジーンズでやってきた。青年のスーツを見て、
娘は予約した店の名前とビルを確認した。娘は少し考えてから、

「それなら着替えてくるから、そこの本屋で待っていてください。」

と言って戻っていった。最寄り駅の本屋は、娘と女店主の店とは違い、
正月も客であふれていた。青年にとって、待っている40分はとても長かった。
本屋に並ぶ本の題名は一つも頭に入ってこない。
勝手な予約で怒らせたかもしれない、順序を誤ったかも知れない、と、何度も考えた。
38分が過ぎたところで、デートでのマナーの本を探すべきだと気が付いたが、
店の外に娘の姿が見えた。


戻ってきた娘はタイトスカートのスーツ姿だった。青年は戻ってくれたことに
ホッとするよりも、心臓がまた高まってしまうのを抑えるように努めた。
髪をアップにした娘は、就職試験で面接室に案内をしてくれたOLよりも眩しかった。

「今、家はちらかっていて、すぐ出てくるちゃんとした服はリクルートスーツだけ
なんです。」

という娘を青年はできるだけ見ないで切符を買い、改札口を通って電車に乗った。
混んでいない電車の横長の座席で、となりに娘が座ってくれていることが、
青年にとっては信じられない現実だった。

青年は、ターミナル駅からビルまでの地下道を間違えずに歩き、エレベータを
降りたときにウェイターに予約を告げるまでで、ほぼ集中力を使い果たしたように
思えた。夕方から暗くなっていく時間には、街を見下ろすレストランの窓際は、
親子連れと老夫婦が占めていた。正月は、家族にとって大切な日だ。

11話

案内されて窓際に座ったリクルートスーツのカップルは、特別研修を受けている
新入社員のように見えた。それでも、青年は、この上なく幸せだった。
食事の味は覚えていないが、出てくる料理に、娘が手を広げて喜んでくれるたびに、
誇らしかった。青年は、夏休みに宅急便のアルバイト一週間分のお金の使い道として、
この食事は勿体無くないと思った。入社してから使うパソコンの購入は、
1ヶ月ほど遅くなるが、自分で使い方を決められることが嬉しかった。
街を見下ろしながら、お互いの話をした。名前など聞かなくても、その時には
会話する相手は一人だけだったので何も困らなかった。


研修で習ったとおりに、特別な食事をオーダーしたので、レストランはサプライズの
ケーキを用意してくれた。ウェイターとウェイトレスが並んで

「お誕生日おめでとうございます」

と、ハッピーバースデーの歌を歌ってくれた。背が高くてハンサムなウェイターが、
娘の名前をそっと聞いて、もう一度名前付きでハッピーバッスデーが歌われた。
青年はその名前を忘れないように、心の中で5回繰り返した。
この日は誕生日ではなかったが、娘は微笑んで皆にお礼を言った。
店員がそれぞれ持ち場に戻り、また二人になった時に、
娘はケーキに顔を近づけてバニラとフランボワーズの香りを楽しんだ。
青年の顔に近づいた髪からは、石鹸の匂いがした。娘は顔を上げて問いかけた。


「あなたは、何度もあのお店に来て、何を知りたかったの?」


青年は、頭の中から出てきたいろいろな言葉の中から一つだけを選んだ。


「名前...です」

娘は、笑った。久しぶりに心から笑ったヒトが、自分の笑い声に楽しくなるように、
笑いは続いて、この街の夜景に溶け込んだ。青年には、この世の中のどんなに感動的な
音楽よりも娘の笑い声が素敵に思えた。

12話

それから、二人はこれまでのお互いの出来事をしばらく話した。青年は、デザートと
コーヒーが無くなるのがこれほど早いとは知らなかった。支払いを済ませて
ターミナル駅につき、電車で家の近くの駅にもどるまでの間、またお互いの何年かを話した。
近隣の駅の改札から娘の本屋までの間、青年は本屋の前でスマートに去る予行演習を
頭の中で実施した。


本屋に着いたところで、娘はちょっと待つように伝えたのち、シャッターのくぐって
店内に消えた。青年は、ここでどんな言葉でスマートに帰るか、頭をフル回転させた。
正月の夜の地区センターにはだれもおらず、広場の街灯も省電力で暗かった。
暗い地区センターで、娘に挨拶をして帰るときのかっこいい一言を青年は考えた。

娘はジーンズに着替えて出てきた。ちょっと入るように勧める口調は、女店主と似ていた。
店のレジの後ろの戸をあけると階段があり、娘は二階にはコタツがあるからといって階段を
上るように青年に指示した。二階の部屋は硝子のはいった障子で仕切られていて、
シャッター側の部屋は客間らしくこざっぱりとかたずけてあり、部屋の中央に
コタツがあった。コタツの上には、日本酒とコップが置かれていた。
ほら入ってと言われて青年は正座をしてコタツに入った。

娘は小学校のころの話を始めた。

13話

娘は、文房具屋の娘というのが嫌いだった。文房具を売っている店の娘ということが
知られると、小学校ではいじめられた。サラリーマンの子弟ばかりの小学校では、
自分の家の売り物で勉強している同級生が異質に見えたらしい。
結局、娘は隣町の小学校に転校した。

文房具も本も好きではなかったが、同級生にうまく溶けこむことが不得意だったので、
娘は店を手伝ったとのことだった。途中からは時間が余ってしまうため、娘は、
店の手伝いをするふりをしていつも本を読んでいた。そのころから、
住民の多くは駅前の本屋で本を買うようになったので、本は売れずにいつまでも
代わらなかった。ところが、そのころ通い始めた少年が、本を買うようになって、
空いたスペースに新しい本が入ってくるようになった。

娘にとって少年は、新しい本を運んで来てくれる存在だった。とはいえ、
この店の子であることは知られたくなかった娘は、少年が来た時には店員ではない
ような位置に立つようにしていた。本が並ぶ棚と文房具が並ぶ棚の中間の位置に立って、
文房具を選ぶような姿勢をすると、本当に自分が客であるように思えた。
ただ、いつも、自分の母親にお金を支払うときには少年を後ろから見ていた。


たくさんの本を読んだ読解力は、中学時代から少女の成績を向上させた。
店主である母親にとっては、娘が自慢と希望になった。娘は地元の大学にできた
情報科学の分野に進んだ。

「今の文房具屋は流行らないけど、いずれ流通の仕組みは変わる。そのときには、
今度は駅前の本屋よりも、この文房具屋の方が先端を行くのよ!」

と力強い声で拳を振り上げる娘は、青年が何度も想像した娘とは異なっていた。
でも、青年には娘が自分の想像と違っていることが楽しかった。