少年は、自宅から遠い大学に合格した。ランクの高い大学だった。電報が届いた日に、
文房具屋に走って行き、その日こそ少女の名前を聞くつもりだった。本を読んだこと、
勉強したこと、そして少女を幸せにできることを話すつもりだった。走る間じゅう、
胸に入ってくる春の空気が気持ち良かった。でも、文房具屋に少女はいなかった、
新しい土地に出発するまでの間、毎日文房具屋に通ったが、一度も会う機会はなかった。
最後の日に、少年は、大江健三郎を買った。女性の店主は、
「あの娘はもうこのお店に来ないね。ごめんね」と言った。栗色になった髪をアップにした
店主の顔が平板に白くなったことで、化粧が厚くなったことに気が付いた。
翌朝、新しい土地に向かう飛行機の中で、女店主が少女の名前を知っているかもしれないことに
気がついた。少年は、次に戻った時に、必ず名前を聞くことを決めた。
大学最初の夏休みに、少年の父親が病気になった。少年は、帰省した日に家にもどらず、
父親の入院している病院に行った。清潔な廊下が広くて、病室から大きな河が見える病院だった。
母親はてきぱきと動いて、父親が病気から回復できるように、様々なことを父親に指示していた。
わがままだった父親は、母親の指示を全て聞いていた。夕方、面会時間が終わって、
帰宅途中に母と食事をした。
「お父さんもね、本当にだめなところはあるけど、今はみんなで励まさないとね」
少年は、母の前髪が栗色になっていることに気が付いた。
その日帰宅するとオルゴールの箱が消えていた。箱のあった棚には、癌に関する本が置かれていた。
本には父が読んだらしく、父の字での書き込みとメモが挟まっていた。少年は、オルゴールの
ことは尋ねてはいけないように感じて、癌の本の横に社会思想史のテキストを並べた。
遠い大学で、教科書として購入したものだった。同級生との飲み会で、アイドルの衣装を来て
歌う男性の同級生に、社会思想史を語ったら評判になり、何度も中身を読んだ結果、
中身を語れるようになったものだった。少年がいくら社会思想史の本の内容を説明しても、
NHK教育の学者のようにはならなかった。
少年の夏休みは、父の付き添いとアルバイトで過ぎた。何度か文房具屋に行ったが、
少女はおらず、女店主が大人びた少年を喜んでくれた。女店主の髪は栗色から
金髪に変わっていた。自宅ではオルゴールがしまわれてしまい、少年には、
サチフダが無かったので、少女の名前を聞くことは無いと感じた。少年は夏休みの思い出に
ガルシアマルケスのエレンディラを買い、大学のある街にもどった。毒薬を飲み干しても
平気な登場人物が何も不思議に思えない世界を通すと、少年の日常は少し変化したような
気がした。