2019年7月2日火曜日

10話

翌日の1月1日には、青年はアルバイトで貯めた金で娘を食事に招待することにした。
母には、正月研修と説明して、午前中からその街のターミナル駅に行き、
駅から見える高層ビルのレストランに電話を掛けた。就職の研修では、このような
レストランとの交渉方法も教えてくれた。

「今日は特別な日なので、一番上のコースをお願いします」

という予約のしかたも研修通りだった。
娘とは、女店主の介護が終わって戻る夕方に、青年の実家と本屋の最寄り駅の改札口で
待ち合わせをしていた。


昨日別れた改札口には、娘はジーンズでやってきた。青年のスーツを見て、
娘は予約した店の名前とビルを確認した。娘は少し考えてから、

「それなら着替えてくるから、そこの本屋で待っていてください。」

と言って戻っていった。最寄り駅の本屋は、娘と女店主の店とは違い、
正月も客であふれていた。青年にとって、待っている40分はとても長かった。
本屋に並ぶ本の題名は一つも頭に入ってこない。
勝手な予約で怒らせたかもしれない、順序を誤ったかも知れない、と、何度も考えた。
38分が過ぎたところで、デートでのマナーの本を探すべきだと気が付いたが、
店の外に娘の姿が見えた。


戻ってきた娘はタイトスカートのスーツ姿だった。青年は戻ってくれたことに
ホッとするよりも、心臓がまた高まってしまうのを抑えるように努めた。
髪をアップにした娘は、就職試験で面接室に案内をしてくれたOLよりも眩しかった。

「今、家はちらかっていて、すぐ出てくるちゃんとした服はリクルートスーツだけ
なんです。」

という娘を青年はできるだけ見ないで切符を買い、改札口を通って電車に乗った。
混んでいない電車の横長の座席で、となりに娘が座ってくれていることが、
青年にとっては信じられない現実だった。

青年は、ターミナル駅からビルまでの地下道を間違えずに歩き、エレベータを
降りたときにウェイターに予約を告げるまでで、ほぼ集中力を使い果たしたように
思えた。夕方から暗くなっていく時間には、街を見下ろすレストランの窓際は、
親子連れと老夫婦が占めていた。正月は、家族にとって大切な日だ。

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