2019年7月2日火曜日

11話

案内されて窓際に座ったリクルートスーツのカップルは、特別研修を受けている
新入社員のように見えた。それでも、青年は、この上なく幸せだった。
食事の味は覚えていないが、出てくる料理に、娘が手を広げて喜んでくれるたびに、
誇らしかった。青年は、夏休みに宅急便のアルバイト一週間分のお金の使い道として、
この食事は勿体無くないと思った。入社してから使うパソコンの購入は、
1ヶ月ほど遅くなるが、自分で使い方を決められることが嬉しかった。
街を見下ろしながら、お互いの話をした。名前など聞かなくても、その時には
会話する相手は一人だけだったので何も困らなかった。


研修で習ったとおりに、特別な食事をオーダーしたので、レストランはサプライズの
ケーキを用意してくれた。ウェイターとウェイトレスが並んで

「お誕生日おめでとうございます」

と、ハッピーバースデーの歌を歌ってくれた。背が高くてハンサムなウェイターが、
娘の名前をそっと聞いて、もう一度名前付きでハッピーバッスデーが歌われた。
青年はその名前を忘れないように、心の中で5回繰り返した。
この日は誕生日ではなかったが、娘は微笑んで皆にお礼を言った。
店員がそれぞれ持ち場に戻り、また二人になった時に、
娘はケーキに顔を近づけてバニラとフランボワーズの香りを楽しんだ。
青年の顔に近づいた髪からは、石鹸の匂いがした。娘は顔を上げて問いかけた。


「あなたは、何度もあのお店に来て、何を知りたかったの?」


青年は、頭の中から出てきたいろいろな言葉の中から一つだけを選んだ。


「名前...です」

娘は、笑った。久しぶりに心から笑ったヒトが、自分の笑い声に楽しくなるように、
笑いは続いて、この街の夜景に溶け込んだ。青年には、この世の中のどんなに感動的な
音楽よりも娘の笑い声が素敵に思えた。

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